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ルターによる日々のみことば

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2018/1/21 (日) のみことば

律法と福音

わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 ローマ3・28

 ここで聖書は、ふたつに分かれていることがわかります。すなわち、一つは、神の律法と戒めであり、他は、みことばと約束です。

 戒めは、わたしたちに多くのよいわざを教え、示します。しかし、それらは命じられても、まだなされていません。戒めはよくわたしたちに指示しますが、しかし、わたしたちを助けません。なにをなすべきかを告げ知らせますが、それをなす力は与えません。律法は、それによって、人が善をなす力がないということを認識し、自分自身に絶望することを学ぶためにこそ与えられたのです。このようなわけで、戒めは古い契約と呼ばれ、旧約に属しています。たとえば、「あなたは悪い欲望を抱いてはならない」という戒めによって、わたしたちはすべて罪人であるということが示されます。なぜなら、だれも、悪い欲望をもたないということはできないからです。彼はそのようにしようと努力します。そして、自分自身に絶望することを学びます。そして、悪い欲望からのがれるために、他に助けを求めるようになり、ただひとりの助け主の助けによって、自分ではできなかった戒めを成しとげることを学ぶのです。さてこのようにして、戒めによって自分の無力を知らされた時、そして、どのようにして自分がそれを守ったらよいかと案じている時彼はまったくけんそんになり、自分の目にはだめだと思いこみ、しかも、自分自身の中には救いとなるべきものはなにひとつ見いだせないのです。その時、今ひとつのことば、神の<約束>が告げられます。「もし、あなたがすべての戒めを守りたいと望み、戒めがすすめ、要求している罪と情欲からの自由を得たいならば、見よ、わたしがあなたのためにあらゆる恵みと、義と、自由と、平和を約束したキリストを信じるべきである。もし、信じるならば、得るであろう。信じないならば、得ないであろう。また、だれでも信じないものは、なにひとつ与えられない」

キリスト者の自由


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