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ルターによる日々のみことば

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2019/1/25 (金) のみことば

失われた者を求めて

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。 第一テモテ1・15

 キリストは、「わたしの使命は人々を救うことである」とおっしゃいます。キリストは、まことの主人として、自分の仕事について生き生きと語ることができます。自分の仕事について詳細まで知っている人は、それについて語る権利があり、それによって、すべての人は彼が熟練した仕事場の主人であることを認めます。キリストも、実は、ご自分の仕事のこのような主人であります。ですから、自分の仕事、使命について確信をもって語るのです。「わたしは、失われたすべての人を助けるためにやってきた。これがわたしの仕事であり、使命である。わたしは、新しい律法をこの世に負わせるためにつかわされたのではない」。この世には、人々が守ることのできる以上の律法があります。国家、父母、学校の先生、看守、すべての人は律法によって治めます。しかし、主キリストはこうおっしゃいます。「わたしは、さばき、咬み、苦情を言い、人を罪に定めるためにきたのではない。世は、悪魔とよみの力の下にあるから、あまりにもきびしく罪に定められている。それゆえ、わたしは律法によって人を支配しない。わたしは、わたしの降誕と死によって、失われたすべての人に救いを与え、律法と、さばきと、罪の重荷にひしがれそうになっている人を解放し、自由にするためにきたのである」。

 これこそ、主イエスがご自分の愛の姿を描いて言われた慰めのことばであり、ヨハネが3章に言っていることばとも一致するものです、「神はそのひとり子をこの世にたまわった。それは世をさばくためではなく、彼によって、世が救われるためである」。「わたしは、すでにさばきを受け、さばく人々と、さばきで満ち満ちている世にきた。わたしはこれらのさばきを取り去ろう。それによって罪に定められている人が救われるためである」。わたしたちが絶望の底から得たいと望んでいるのは、実に、このことばです。

ヨハネ福音書3章の註解


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