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ルターによる日々のみことば

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2024/4/16 (火) のみことば

わたしは父のところに行く

「けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている」 ヨハネ16・5

 この「わたしは父のところに行く」ということばは、わたしたちのあがないと救いのみわざのすべてを含んでいます。神のみ子はこのために天からおくられたのであり、主はわたしたちのためにこれをなし、また世の終わりまでなし続けてくださいます。すなわちそれは、主の苦しみの死と、復活と、教会の中の神の国です。父のところに行くということばは、わたしたちの罪を支払うために、その血と死を通してご自分を犠牲のそなえものとしてささげられることにほかならないからです。その後、主は復活によって罪と、死と、よみに打ち勝ってくださり、それらをご自分の権威の下におかれました。そして、生ける救い主として父の右に座し、天上にあるもの、地上にあるもの、すべてのものを見えざるうちに支配しておられます。そこから、教会を集め、発展させ、信じるもののために、永遠の仲保者、大祭司として父の前に立ってとりなしをしていてくださいます。信仰者はこの世にあっては、なおも、弱さと罪に取り囲まれているからです。さらに主は、罪と、死と、悪魔を征服するために、聖霊の力を送ってくださいます。

 このように、キリストが父のところに行かれるのは、神の前に信仰者が義とされることです。主はわたしたちのために苦しみ、よみがえり、父にわたしたちを和解させ、それによって、わたしたちは主にあって罪のゆるしと恵みを得るのです。そこには、わたしたちのわざとかいさおとかはなにもなく、ただすべてはわたしたちのために主が父のところに行ってくださったことによるのです。(わたしたちは価値のあることをなにひとつせず、また、できませんから)、他の人の義がわたしたちに与えられ、わたしたちのものとされました。それが、わたしたちの義となり、それによって、わたしたちは神によろこばれるものとなり、神の世継ぎとなり、神に愛せられる子となるのです。

ヨハネ福音書16・5−15の説教


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