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ルターによる日々のみことば

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2024/4/6 (土) のみことば

ゲツセマネの苦しみ

キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 ヘブル5・7

 あわれみ深い父よ、わが主イエス・キリストはなぜおののかれるのですか。神の子が、なぜおののかれるのですか。主の苦しみはなんのためですか。主は杯を取り去ってくださいと祈られました。それはなんの杯でしょうか。それは十字架上のおそろしい死です。しかし、なぜ死なれる必要があるのですか。主は罪なく、きよい正しいかたでした。それにもかかわらず、神が全世界の罪を負わせられたからです。それが主に押し迫り、おぴやかしたのです。

 そこで、もし神がわたしの罪を主に負わせたならば、わたしが罪から解放され、罪を取り去られているのは真実ではないでしょうか(ヨハネは、主を世の罪を取り除く神の小羊と呼んでいます)。そうだとすれば、わたしはなぜわたしと主イエス・キリストを訴える必要があるでしょうか。わたしは罪人です。悲しいことにそれは真理です。罪はわたしをおびやかします。わたしは悲しいことに、深くこのことを思い、わたしの心はいつも気力を失ってしまいます。わたしは、神とそのきぴしいさばきの前におののきます。しかしそれにもかかわらず、わたしはなにゆえに自分を責め、主イエス・キリストを責めなければならないのでしょうか。あのオリブ山で主はおののきふるえ、あまりのおそろしさのために血の汗を流されました。そして主をそこへ導いたのは、わたしのがまんのならない罪なのです。主はわたしの罪を負ってくださったのであり、それは実に重い荷であったのです。しかし、この主の犠牲のゆえに、わたしは罪をいつもゲツセマネにおき、それによって、神とそのさばきの前に立つ時は、わたしのうちに神が罪を見いだされることはないと確信をもって希望することができます。

 オリプ山こそ、あなたの慰めではないでしょうか。

1545年の説教から


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